これはブログではない : Je ne vois pas
拡大するシュルレアリスム2026に行ってきた!
2026年6月20日に東京オペラシティで行われた超現実主義の絵画、彫刻、ファッション、広告、写真、映画までいろんな超現実主義のアートを詰め込んだ。作品展に行ってきた。(いつか行きたいと思っていて、20日になってしまった。24日までの展示なので超ギリギリだった。いつもこうなる。)
まずビビッときた作品について、紹介したい。入口付近に展示されていた、ルネ・マグリット作"アンケート"。

これは『シュルレアリスム革命』誌12号(1929)の有名なページで真ん中の裸婦を囲むシュルレアリスト16人がいる。中央のテキストには「Je ne vois pas(私には見えない)…森に隠れた女が」と書かれている。 これから紹介するブルトンもダリもブニュエルもエルンストもいる。で、全員"内的モデル"を見るために目を閉じてるっていう、ブルトンの理論を集団でビジュアル化したマニフェストなんだよね。外の世界をシャットアウトして内側を見る、の図解。シュルレアリスト達が既存の形式(絵は見て美しさを感受する)というものを否定していて、僕の内なるパンクさというか中二病的感性がくすぐられた。
まず、これを紹介したかった。
超現実主義(シュルレアリスム)は今のシュールの語源となっていて、日本語での超現実主義は漢字の性質上、現実を超えた=非現実的なと認識されてしまうように捉えられる。
シュルレアリスムが目指すのは、「主観」を持つ僕から離れて、一般的な意識の逆を向くことなんだと美術館の冊子に書いてあった。もっと即物的にいうと、例えばマルセル・デュシャンの"折れた腕の前に"(1915)。

これはニューヨークで買ってきた雪かきのシャベルに"折れた腕の前に"と書き込んだだけのもので、デュシャンが初めて「レディメイド」(既製品をそのまま作品にしたもの)と名づけた一枚だ。アートギャラリーではそれが天井から宙吊りになっていて、文脈なしでいきなり見たとき、これはアートなのか?アーティストが作ったらアートになるのか?と思った。
多分、デュシャンがアート界隈に喧嘩を売ったのはここなんだと思う。雪かきは雪かきのままなのに、選んで署名して文脈に置いた瞬間、別の何かに化ける。作るんじゃなくて選ぶ。これがアートだと言い張れるなら、アーティストって肩書きは"何を作ったか"じゃなくて"どう見せたか"で決まることになる。
徹底した作品への美学的介入が拒否されている前提の下、アーティストの実存的問いである、「アートを生み出すからアーティストなのか?」に対してデュシャンはその実存的問いを積極的に肯定しているのだと思った。
文章を書くのが作家、ブログを生み出すのはブロガーでプログラムを書くのはプログラマーで、歌を歌うのがシンガーという実存性なら、アーティストの意志によって作られた物はアートじゃん。みたいな感じ。
アーティストが介入したから雪かきに別の文脈が生まれた。これが現代アートの元祖であり、シュルレアリスムアートの捉え方だと思う。
目の前にある現実を客観(=objectif)的により見つめなおすプロセスをふまえることで、疑う余地なく現実だと認識しているものの中からより上位の現実である「超現実」を露呈させようとしてきた。つまり、デュシャンとかマグリット達は超現実を視覚化するための方法論としてのシュルレアリスム的表現を作ったんだと思う。
今回の目玉であるルネマグリットの"王様の美術館"を見てみよう。

マグリットのトレードマークというか、重要なモチーフというかまぁその有名な山高帽の男が画面中央に大きく描かれていて、この匿名的な存在からさらに目、鼻、唇のパーツ以外が消されていて、しかも、手前にいるはずのその男のシルエットの向こう側に山の中にある、一軒の館があるという、手前と奥の関係が逆転していて、しかも、絵画の下部には、無機質なコンクリートと馬の鈴がポツンと置かれているという。
まぁ、これがシュールってやつだよね。本物にあえた!って感じ。
カントは、空間と時間って外の世界の側にある性質じゃなくて、僕たちが経験するより前から感性に備わってる枠の方だと言った(ア・プリオリな形式ってやつ)。記憶を全部消されても、何を見るより先にこれだけは残ってる。だから僕たちは世界をナマ(物自体)で受け取れなくて、空間と時間ってメガネ越しにしか受け取れない、みたいな。
で、《王様の美術館》はそのメガネの方を歪めてくる。手前の男のシルエットの"中"に、奥の山と館が見えてる。前後が逆。物そのものをいじってるんじゃなくて、僕がかけてる枠を歪めて見せてるから脳がバグる。バグるってことは、普段その枠がちゃんと作動してた証拠なんだよね。
時間と空間のどっちか、あるいは両方が逆転したとき、現実のより上位の何かが、僕たちの認識してる現実に喧嘩を吹っかけてくるんだと思う。"レディメイドの花束"や"人間嫌いたち"を見ても、あの平面的な画風とあいまって脳がバグる。(あと名前が作品と全く関係ないのも面白い。撮影禁止というか権利関係から"人間嫌いたち"の写真はupできなかったけど、知らない人は想像しながらgoogleで検索してみてほしい。多分予想を完全に裏切ると思う)
シュルレアリスム界のピーター・ティール的ドンであるブルトンは「目は野生の状態で存在する」と言った。野生ってのは理性とか西洋的合理主義の反対側だ。そして"見る"のはさっきの枠の主戦場でさ、空間も時間もまず目を通して押し付けられる。だから「見ること」を疑うのは、その枠ごと疑うってこと。アートギャラリーで流れてた無声映画"アンダルシアの犬"(1928)、あの目を切り裂く有名なシーンがある。あれは枠を物理的に切り裂いてみせた、と読むと出来すぎてる。シュルレアリスムで一番大事な概念は、たぶん「目」だ。(もうすぐ100年たつけど、150年後もドン引きされる映画だと思う)
どこかの研究で人間が得る情報の内の9割が視覚情報からだみたいなものを見たことがある。僕たちの認識する世界の90%が目からの細分化された光子の情報からとするならば、見る行為そのものを問い直すというのは、既存の近代的な合理主義への強烈なアンチテーゼだととらえる事ができるよね。
シュルレアリスムと広告コーナーにあった、ダリの女性用ストッキングの広告をみると、ストッキングが蛇使いの蛇になっている。女性が足に履く衣服の一部であるというストッキングの役割が剥奪されて、ダリの想像上の文脈に置かれている。これは僕たちの持つ「ストッキングは履くもの」という認識にたいする反論であり、その先述した近代的合理主義への強烈なアンチテーゼだと僕は捉えている。

今回の展覧会のテーマ通りシュルレアリスムが拡大した。でも広告・ファッション・インテリアに食われても安っぽくならないのは、その核に「意味は意志で創れる」という実存の肯定があるからだと思う。レディメイドは「選んで文脈を与えれば意味は生まれる」と言ったなら、広告だって同じ操作だ。だからシュルレアリスムは商業に"転んだ"んじゃなくて、商業の方がシュルレアリスムの方法論を借りにきたのかもしれない。
次に僕がビビッときたのは、このジャン(ハンス)・アルプの"灰色の上の黒い形態の星座"。

星座という考えるなかで多分かなり複雑な極に存在する概念を極端に単純化して有機的要素を内包させている。とネットで説明されているけど、僕はこの名前とシンプルで、有機的曲線に包まれていて、なんか良いと思ったから。芸術には詳しくないし、芸術史なんかもしらないけど、この作品の前に4分もたち尽くした。でもこの感覚を言語化せずに僕は内包しようと思う。(ブログなのにね!)
僕はアルプがコンクレーション(凝固体)と呼んだ生命的な形が好きなのかもしれない。直線も意味も排して、偶然と自然の形だけで作る。デュシャンの理屈っぽさと真逆の、無意識さもやはり、いかに合理主義を視覚からどう超えるかを問い直しているんだと思う。
まぁ、知性より身体性を優先しようかな。
作者が何を考えてたかなんて、究極どうでもいいのかもしれない。デュシャンの意図もマグリットの意図も、結局は僕の解釈を組み立てる一要素でしかないくて、正しい一個の意味があってそれを当てにいく、っていう読み方を僕は取らない。(取れないのが正しいのかもしれないそこまで詳細な美術史に興味ないし)
目の前のシャベルや山高帽の男が、僕の中で何に化けるか。それだけが僕にとっての現実だ。
本当は、僕たちはアートを見ているじゃなくて、アートが僕たちを観察しているのでは?なんてね。これはブログじゃなくてモニターに内蔵されているLEDの光だしね
最後に好きな引用を置いておこう。
"シュルレアリスムは奇妙な毒である。シュルレアリスムは、芸術の分野でこれまでに発明された想像力に対する毒物の中で、最も激烈で最も危険な物である。シュルレアリスムは抗しがたく、恐ろしく伝染する。用心せよ!私はシュルレアリスムを運んでくる。" (サルバドール・ダリ)